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ファイティングスピリッツ

芸能界歴十年以上の元音楽プロデューサーが日々の真実を独特の視点で斜めに斬るブログ。


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かつて八重山共和国が存在した


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突然ですが、皆さんは「八重山共和国」をご存じでしょうか?
それって、よく自治体が「地域興し」の為に作る「国」の一つだろう?
突然の質問に、この様に思われた方もおありの事と思いますが、これは単なるパロディー等ではありません。戦後間も無い昭和20(1945)年12月15日から12月23日迄のたった8日間でしたが、「八重山共和国」 ── 後にそう呼ばれる事となった独立国が実在しました。この独立国に関わった人の多くが既に亡くなってしまっている以上、又、例え存命であっても多くを語りたがらない以上、「歴史」の中に埋没してしまうのも致し方ない事なのかも知れません。しかし、例え、「八重山共和国」(以下、単に「共和国」と略)が短命に終わったにしても、確かにその国は実在したのです。そこで今回は、終戦直後の混乱期、日本の最西端で誕生し、そして、夭逝した幻の共和国に光を当ててみたいと思います。

何故、日本の最西端・八重山に「共和国」が誕生する事となったのか? それには先ず、誕生に至る経緯から触れなくてはなりません。昭和20(1945)年8月15日、昭和天皇の『終戦の詔勅』 ── 所謂「玉音放送」によって、日本は米国に敗北した訳ですが、日本で唯一、地上戦を体験した沖縄 ── 琉球列島は、本土がGHQ連合国軍総司令部)の占領統治を受けたのとは異なり、米軍の軍政下に置かれました。しかし、沖縄本島から遠く離れた八重山では、米軍の進駐が若干遅れたのです。終戦直後、島田叡県・知事が死亡した沖縄県庁も、八重山を管轄する八重山支庁も機能を停止し、言わば一種の無政府状態に陥った八重山は、他の島とも連絡が取れない孤立無援の状況下で、治安の悪化、軍への徴発による食糧不足(住民は本来、食用では無い蘇鉄をも食した)、住民の栄養失調によるマラリアの蔓延、更には、終戦時、約9千人居た現満兵(現地満期兵)による婦女子への暴行・農作物泥棒等に悩まされたのです。この様な状況下で、混乱した秩序を回復するべく、地元青年団による「自警団」が組織されたのです。
昭和20年9月(あるいは10月共言う)、八重山の青年達の指導者的存在だった当時23歳の宮城光雄(登野城地区青年団長)と同輩の豊川善亮(同地区青年副団長)の二人は、「自警団」を組織するに当たって、一つの大志を抱いていました。それは、
八重山に独立国を創る

と言うものだったのです。宮城と豊川はその大志を胸に、大川地区青年団長の本盛茂(もともり-しげる)、石垣地区青年団長の内原英昇を誘って「自警団」を組織、この瞬間、「共和国」は胎動を始めたのです。とは言っても、彼らはまだ二十代前半の若者。社会的地位が高い訳でも無く、住民を纏(まと)め上げるだけの組織力も無かったのです。そんな彼らの前に一人の曰く付きの人物が現れたのです。
彼の名は、宮良長義(みやら-ちょうぎ)。昭和7(1932)年、日本教育史上最大の逮捕者を出した「八重山教員思想事件」に連座して、「特高」(特別高等警察)に検挙、検束・拘留され、想像を絶する拷問の末、教員を免職。その後、労働組合運動・農民運動を始めとする政治運動に参加し、更に「思想転向」して教員に復職、「皇民化教育」を実践したと言う経歴を持つ人物です。その彼 ── 終戦時、黒島で学校長を勤めていた彼が、薬品を分けてもらおうと、たまたま八重山に来た時、その「政治力」に目を付けた青年団が彼に接触、共に「共和国」実現に向けて奔走する事となったのです。
宮良長義は、同年10月から11月にかけて、八重山の指導者層(浦崎県保・潮平寛保・宮城信範・宮良永益・翁長信全・吉野高善)・住民の圧倒的な支持を得ていた医師の宮良長詳・各地区代表者・婦人会・老人層・農村指導者等に次々と接触し、「自治会」構想(宮城・豊川とは異なり、宮良はあくまでも「自治会」=「自治政府」の組織と考えていた)について説明し、充分な根回しの末、支持を取り付けていき、11月には「自治政府結成準備会」が発足。そして、この時、施政方針についても討議されたのです。
     「八重山共和国」の施政方針
食料の安定供給
マラリア対策
治安の回復
財源確保の為の事業構想
組織の構成
人事
12月に入ると、遂に、「八重山共和国」誕生に向けた陣痛が始まりました。宮良長義等の積極的な情報宣伝と、組織化活動によって、住民の間に「自治会」樹立構想が広く行き渡り機運も昂揚、詰めを残すばかりとなったのです。12月9日(あるいは10日共言う)、宮城等の青年グループは独自に会合を開き、「自治会長」に誰を据えるのかを討議。住民の圧倒的な支持を得ている宮良長詳を「自治会長」に推挙する事に決し、その旨を、宮城・宮良長義が宮良長詳に打診、彼の就任受諾を引き出したのです。その後、13日に「自治副会長」就任を受諾した吉野高善邸に於いて、最終準備会を開き、人事の決定・郡民大会(記念式典)の進行及び、機構・規約・宣言決議文等の重要案件についての最終確認を行い、昭和20年12月15日 ── 「共和国」の出産を迎えたのです。
昭和20年12月15日午後8時、場所は「八重山館」(映画館、現在は「万世館」)。住民が館外に迄溢れる程、参集する中、郡民大会は始まり、「自治会長」(共和国大統領)に宮良長詳を選出、ここに後に「八重山共和国」と呼ばれる事となった、八重山住民の八重山住民による八重山住民の為の「自治会」(自治政府)が樹立されたのです。
   「八重山共和国」(自治会)の機構・閣僚
                     ┌総務部長 宮良長義
                     │
会長 宮良長詳─┬─副会長 吉野高善─┐ ├文化部長 大浜用立
   (大統領)│          │ │
        └─副会長 宮城信範─┴─┼衛生部長 喜友名英文
             (副大統領)  │
                     └治安部長 与那原孫佑
その後、「自治会」の当面目標(施政方針)として、人心安定・治安確保・引揚者の帰還促進・マラリア患者対策・闇物資対策等が打ち出され、午後11時、大会は終了したのです。この様に、住民主体で樹立された「共和国」でしたが、その生命(いのち)は、余りにも儚(はかな)いものでした。何故なら、誕生から8日で夭逝してしまったのですから・・・。
昭和20年11月初旬、「米国海軍軍政府の統治権が宮古八重山諸島にも及ぶ」と言う確約を得た、南部琉球軍政長官・ジョン=デイル=プライス海軍少将が、チェイス海軍少佐を八重山に派遣。12月23日午前9時、『米国海軍軍政府布告第1号-A』が発令されると共に、八重山支庁舎に於いて、宮良長詳自治会長・翁長良整(おなが-りょうせい)支庁長代理等と会見したチェイス少佐は、米国海軍軍政府の樹立施行を宣言、ここに、「共和国」は樹立後8日にして消滅したのです。しかし、「共和国」はその後も形を変えて暫時命脈を保ちました。
「共和国」消滅から5日後の12月28日、米国海軍軍政府は、「自治会長」だった宮良長詳を支庁長に、仮自治政府としての新生「八重山支庁」(以下、単に「支庁」と略)を発足させました。
   米国海軍軍政府下「八重山支庁」(仮自治政府)の機構・人事
支庁長 宮良長詳─┬─総務部長 宮良長義─┬─庶務課員 豊川善亮
         │           │
         ├─経済部長 幾 万伸 └─庶務課員 本 盛茂
         │
         ├─事業部長 崎山英保───商工課員 宮城光雄
         │
         ├─衛生部長 吉野高善
         │
         ├─文化部長 安里栄繁
         │
         ├─警務部長 平良専記
         │
         ├─逓信部長 奥平朝親
         │
         ├─八重山銀行総裁 真栄田正雄
         │
         └─八重山気象台長 瀬名波長宣

確かに、「共和国」自体は消滅してしまいました。しかし、「支庁」に、「共和国」に関わった人達が数多く参加した事も確かで、「共和国」は形を変えて「支庁」に継承された共言えます。そして、それを象徴するかの様に、昭和21(1946)年1月24日、宮良支庁長は、支庁会議室に於いて、自ら「共和国」の解散を宣言しました。その後、宮良支庁長は、「共和国」を体した施策を推進しましたが、反対派である「共和会」と、それを支援する軍政府の圧力により、昭和21年10月20日、支庁長職を辞任、支庁長と共に歩んできた支庁職員も30数名が辞職、後任の吉野高善・新支庁長を中心とした反対勢力「共和会」による新体制が発足し、ここに、「共和国」の命脈は完全に終止符を打たれたのです。
その後、沖縄は、昭和27(1952)年の琉球列島アメリカ民政府成立、昭和32(1957)年の高等弁務官制(「沖縄の帝王」として君臨した米軍高等弁務官による独裁制)、昭和43(1968)年の琉球政府主席公選を経て、昭和47(1972)年、念願の「本土復帰」(日本復帰)を果たしました。しかし、それは、昭和26(1951)年、日本本土が『サンフランシスコ平和条約』に調印、GHQによる占領統治を脱し、国際社会への復帰を果たした実に21年後の事だったのです。その様な沖縄にとっての「激動の時代」の中で、「共和国」は何時しか忘れ去られ、歴史の中に埋没していきました。しかし、戦後間も無い時期、たった8日間とは言え、日本の最西端・八重山に住民発議の「共和国」が存在した事は、紛れも無い事実なのです。そして、その事は、私の様な「ヤマトンチュ」(大和=日本本土の人)よりも、むしろ、「ウチナンチュ」(沖縄人)にこそ、記憶に留めておいて頂きたいのです。(了)

 

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