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ファイティングスピリッツ

芸能界歴十年以上の元音楽プロデューサーが日々の真実を独特の視点で斜めに斬るブログ。


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日本の商人史を探る~非人、河原者とは何か、商人はどこから誕生したか


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現在は企業社会で世界、日本に関わらず企業が利益を追求し物を作り、販売し、流通させるしくみは共通です。当たり前のように生きている企業社会、市場社会、しかしほんのわずかここ200年~300年で作られた仕組みに過ぎないのです。
日本史を紐解いていくと商業、市場というものが非常に複雑な形で、おそらくは他国とは異なった形で登場し江戸時代まで継続してきたものと思われます。
単純な仕組みではないと思いますが、単純化すれば士農工商の中で商の身分が一番最下位であり、近江商人の「三方よし~売り手よし、買い手よし、世間よし」
に代表されるように私欲を抑え、社会=回りの役に立ってこそ利益を得る資格があるといった社会空間のなかで居場所を探し続けたのが近代以前の商人の姿でした。

近江商人は1700年代に石田梅岩の教えを受け全国に広がった商人集団ですが、近代企業社会のトヨタ自動車日清紡など多くの大企業を生み出す母体となり、その倫理観は現代でも日本企業で多く認められる「勤勉・倹約・正直・堅実・自立」に繋がっています。

さて、この日本の商人、商売を考える上でどうしても避けて通れないのが古代の商人史です。
非人、河原者、後のエタといった差別民は全て商人から始まりました。
今回は網野さんの著書から非人、河原者の部分を抜粋、一部要約して紹介してみたいと思います。

■非人
非人という呼び名の人たちが登場したのは11世紀後半です。「非人の長吏」として史料の上にことばがでてきます。非人は独自の組織をもった集団であったと考えられます。
この中に身寄りのない人や重病人の人がいたことは確実でこれらの人がケガレを清める職能に従事した。それが非人の始まりです。
特に京都、奈良に多く見られまずが、全国的にも各国の国衛周辺でこれらの集団の人々が登場するのです。京都の場合は清水坂がひとつの大きな拠点となります。その拠点となっている場所を「宿」とよびます。清水坂の宿を「本宿」と呼び、非人の長吏が居て、京都の町の非人だけでなくその周辺に広く散在する非人の宿を「末宿」として統括していました。
大和の奈良坂に北山宿というもうひとつの「本宿」があります。興福寺春日大社と関係を結び大きな権威を持つ非人の宿となっていました。
こうした非人の組織を全体として見ると一ろう、二ろうのような一種の年功序列の組織であることがわかります。寺院の僧侶の組織にも、商工会議所の座の組織もこうした年功序列のらつ次をもっており、非人の組織は商工業者の座と同じような組織を持っていたと考える事ができます。
こうした非人の仕事についてこれまであきらかになっていることのひとつが葬送で、室町時代では京の町の中の葬送のさいの死体を乗せる輿を清水坂の非人が管理していました。
非人は葬送に際して死者とともに葬られるさまざまな物品を収入として得るという権利をもっていたのです。これは死穢を清めるという機能を非人が持っていたことになります。
ケガレについて当時の人々が畏れの感情をもっていた事、少なくとも平安時代までは非人はそのケガレを清める職能を有していた事から一般の民ではない神人、奇人、神仏の直属民という社会的位置づけがあたえられていたのだと思います。

■河原者
さて、広い意味で非人と呼ばれることもありますが、先に述べたせまい意味での非人とは異なり、河原細工丸などというかたちで史料に出てくる、いわゆる河原者という集団がおります。河原者は律令制の主鷹司という役所に属していた鷹飼の下にあって鷹のえさを取っていた餌取がその一つの源流と推測されていますが、「河原者」としての史料は少なく、南北朝前期に「河原細工丸」といわれる人々が長者に率いられて祇園社に属し「裏無」という履物をつくって祇園社に貢納していたことは確認できます。
「裏無」とは一方で「清目」と呼ばれ、狭義の非人とは別の集団を作っていたのではないかと推測できます。そして少なくともその一つの仕事が牛馬の葬送、解体、皮の処理で、それを河原で行っていたものと思われます。つなり牛や馬の死に伴うケガレの清めがこの人々の職能のひとつであったのは間違いないと思います。
それだけではありません。さらに河原者は井戸を掘ったり、大きな石や樹木を動かすなどの一種の土木にたずさわっています。これも先ほどのケガレと同じで当時の人々は自然に大きな変更を加える事にきわめて慎重であり、しかもこれに対してはある種の畏怖をいだいていたと思われます。
また、室町時代には造園―庭園を作る仕事も河原者の仕事であり、神仏の直属民であったと見てよいと思います。
非人、河原者とも自らを「御清目」と名乗っており、社会外の存在ではなく、自身の職能について誇りをもつ職能民と見てよいのではないかと思います。

非人、河原者とも奈良時代に出来た律令制の中で重病、税逃れ等何らかの理由で戸籍から除外されたもの、すなわち共同体からはみ出した者が後に平安時代になって救い出された形になっています。しかし網野さんが言われるような自ら「清目」と呼びながら平安末期、鎌倉の始めごろには河原乞食、自由民としての非人として社会空間の中で宙に浮き、一遍上人によって全国の自由民は救いを求め、その苦悩を絵巻に表しています。
鎌倉時代の新しい仏教は当時社会からはみ出た遊女=女たちや非人達の救いの為の宗教として登場しました。日本の商人の始まりとはそういった共同体の隙間から誕生したのです。