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ファイティングスピリッツ

芸能界歴十年以上の元音楽プロデューサーが日々の真実を独特の視点で斜めに斬るブログ。


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【食糧備蓄】どのように栽培を循環、維持させるか


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「何を食べ、どのように栽培を循環、維持させるか」歴史上の飢饉の際は、「今食べられるものは何か?」、身の周りのあらゆるものすべてに、可能性を探していそうです☆

飢饉を救ったとされるサツマイモが、飢餓対策として見い出された経緯も、「何を栽培し、どのように栽培を循環、維持させるか?」という可能性追求、自然への注視→栽培方法の追求がありました。

「享保の大ききん」
1732(享保17)年に発生した「享保の大飢饉」。この年、西日本諸地域でウンカ(稲の害となる昆虫)が大発生、加えて冷夏であったため、収穫のなくなった農村を中心に深刻な食糧難に陥りました。この飢饉では、最終的に1万人以上が命を落としたといいます。

この状況を憂えていた8代将軍・徳川吉宗は、九州あたりの飢饉の様子を聞き、サツマイモの存在を知ります。九州では、米の不作がつづいても飢えで苦しむことがないよう、甘藷を植えており、米がとだえたときは、それを食用にあてていたのです。
そして九州では飢饉の際も、たくさんの餓死者を出さずにすんだのだそうです。

徳川吉宗はこれに注目し、サツマイモを取り入れようとします。その際に、サツマイモについてまとめた書物を作ったのが、青木昆陽でした。

青木昆陽が中国の農業書に出会い、漢文で書かれた『蕃藷考』という本を読み、書物にまとめました。昆陽の著わした『蕃藷考』に、大いに心を動かされた越前守は、将軍吉宗にも見せることになります。吉宗もこれを読んで感心し、昆陽に江戸での試植を命じます。

■甘藷先生の誕生
昆陽は、甘藷栽培の責任者という役職が与えられます。甘藷の栽培に本格的に取り組むことになります。種いもは、将軍吉宗の命令で、薩摩藩から取りよせられることになり、1500 個ほどがとどけられました。

 ところが、そのころの江戸では、甘藷をめぐってあらぬうわさが飛び交っていました。庶民の間には、甘藷を食べると病気になると、本気で信じている者もいましたし、「甘藷には毒がある」と書かれた農業書もありました。また、学者の中にも、甘藷の栽培に反対する者がいました。こういう状況では、栽培地ひとつ決めるにも、手間どってしまいます。そのうえ悪いことに、薩摩から取りよせた種いもも、大半をくさらせてしまいます。霜のおりる寒い江戸の気候では、長く保存することができなかったのです。

 昆陽は寝る間もおしんで、残った種いもの保存と、栽培法に取り組みました。そして、寒い冬の間種いもを保存し、暖かくなる春になってから種いもを植え、芽が出るのを待って、そのつるを植える方法を見つけ出したのです。その間に、甘藷の栽培地も、江戸の小石川にある幕府の薬草園(現在の小石川植物園)と千葉の幕張、そして九十九里りの畑の3ヵ所に決まりました。

 栽培地の畑は念入りに手入れされ、イノシシなどが畑を荒あらさないように周囲を柵でかこみました。

 こうして、しっかりと準備を整えた昆陽は、農民をやとい入れ、いよいよ甘藷の植えつけを始めました。その日から、昆陽の甘藷畑通いが始まりました。甘藷の一日一日の成育のようすを自分の目で確かめる生活を送ったといわれています。

 1735 年11 月、記念すべき最初の甘藷が掘り出されました。予想をうわまわる成育ぶりでした。その数は、4400 個あまりにおよんだといわれています。4400 個あまりの甘藷は、関東地方の甘藷栽培のいしずえとなる、貴重なものでした。

戦時中には学校にも植えられて食糧難をしのいできた、現在でも100%の自給率を誇るサツマイモも、日本の風土に合った栽培方法が受け継がれるまでに、先人の徹底した注視と追求がありました。

今では広く普及している、つるを植えて栽培する方法も、その際に生み出されたのですね☆

自然外圧の変化に応じて、自然を注視し、栽培の歴史を生み出してきた先人に学び、これからの農業、食も「何を食べ、どのように栽培を循環、維持させるか」を追求していきたいです!

 

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